Kikasete 聴かせて

心のブログ

厳しい評価にゃ良し悪しあるし 自慈心はぐくむ評価にせんか


ひと昔前までは「ひとに優しく自分に厳しく」が善い行いの様に思われていましたが、今は「人にも自分にも優しく」が肝要だと言われ始めています。自らを大切にする心は、やがて他者を敬う思いやりや感謝の心につながってゆくと。
逆に自分を大切に思えない人は、善い行いをしながらも、そこに自己肯定感につながる他者からの見返りを求めてしまうため、感謝してもらえなかった時に深く傷つき、嫌な感情が芽生えてしまうこともあるそうで。何よりもまず自己を大切にする心、自分に優しくいられる事で、初めて無条件の他者貢献が生まれるということです。がしかし、自分に厳しい人ほど、自分に優しくを理解頂くのがとても難しい様に感じます。

無条件の他者貢献と言うものは、案外その辺に転がっていて、皆さん知らず知らずのうちにされているものだと私は思うのですが、自分に優しく無い方は、自分の無意識に行っている善行に対しても、とても厳しいように感じます。
例えば、誰かが鍵を落としたとしたら、即座に拾って声を掛ける。当たり前の事ですが、とても良い善行です。自分は気付いても素通りする様な酷い人間じゃ無いのだから、当たり前であって特段褒められる様な事でもない。そう思った方は、なかなか自分に厳しい。

もし、鍵の持ち主が御礼も言わずに鍵を奪うように去って行った場合に、特に見返りを求めた訳でも無いけれど、なんだか少し寂しく感じてしまう。なんなら、せっかく拾ってあげたのに…と腹立たしくすら感じてしまう。皆さん大抵はそんな感情を抱くのでは?
そんな時、自分の善行に対して自身で認めてあげず、ただ当然の事だからしたと言うだけだと、こうなるぐらいならしなければ良かったのか?イヤイヤ…そんな風に感じる自分はダメだ、まだまだだなぁ。だったり、いっそ関わらなきゃ良かった、相変わらずバカだなぁ。と自分自身を責めてしまったり。せっかくの善行ですら、自身を責める要因になってしまう事も。

一方、当たり前の事だけど、善い行いをしたと自身で認めていて、普段から自分に優しい気持ちを向けられている人は、嫌な思いをする所までは同じだとしても、その後で自分を責める事まではせず、まぁ自分は善い行いをしたのだから、良しとしよう。と嫌な気持ちを自分へは向けずに受け流す事が出来る。
そう言った些細な日常の出来事の積み重ねによって、自慈心(自身を慈しみ優しく受け止める心)は育まれ、無条件の他者貢献が成り立って行くのでは無いかと思うのです。

自分を律して厳しく有る在り方が決して悪いと言うのではありません。自分を大切にし優しくあると言う事は、決して自分を甘やかし過ぎたり、他者を批判して自分を擁護すると言う意味では無く、他者を敬い尊ぶ様に、自身も大切に扱い認める事により、自分の心を育み、より一層の成長につなげて行ける事にもなるのでは無いかと思うのです。